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by nu-nw ツイッター
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おひさしぶりです、右男です。
この度、本サイト「新しい単位」が使用させていただいているサービス iswebの終了に伴い、このサイト自身も終了させることになりました。本来ならば他のレンタルサーバーへの引っ越し等、検討することもできたのですが、我々が文章・音楽ともにろくすっぽコンテンツの作成に注力できていない現状をかんがみると、ここで区切りをつけるのが現実的であるとの判断をいたしました。このような結果に私・右男、共同制作者である左男ともに、とても残念に思っていますが、現実に内容の無いサイトを漫然と続けていたことは事実です。この結果を情けなく思うとともに、せめてこの後悔をこれからの生活に生かさなければならないとも考えています。 ごめんなさい。こんなサイトですので、我々のコンテンツを楽しみにされていた方はほとんどいらっしゃらないかと思います。ですから本来はこんな風に思うのは間違ってるのかもしれませんが、なぜか申し訳ない気持ちでいっぱいです。ごめんなさい。申し訳ありません。これからはこのようなことのないよう、注意してまいりたいと思います。 その他「新しい単位」に関係するものとして、左男のブログ「新しい単位 -blog_L-」も閉鎖します。ただし、右男のツイッターアカウントはそのまま、このブログは名前を変更して続けていきたいと思っています(左男くんも別の名前でなにかやっているかも・・・?)。今までに公開していた小説や新しく書いた文章などはこのブログを通じて公開することもあるかもしれませんのでもしよろしければご覧くださればと思います。 以上、少々堅苦しくなりましたが、新しい単位終了のお知らせでした。また別の形でお会いできるのを楽しみにしております。
「○○はなぜだろう」とか、「○○の意味とは」とよく考えます。考えすぎて行動に移せないこともよくあります。むしろ行動する勇気がないからこそ考えたふりをして自分をごまかしているのではないかとさえ思われます。ただ、ここまで考え事が日課になると、この“くせ”をどうにかいかせないものか、とも思います。
「人にはどれだけの土地がいるか」というお話があります。 とある農夫を悪魔が次のようにそそのかします。「日が昇って落ちるまでに歩いて囲った土地を、これだけのお金でお前にやろう。ただし、日が落ちるまでにもとの場所に戻ってこられなかったら、何もなし、だ」と。農夫は土地を得るために歩きました。ただ、歩いているうちに、少しだけ欲を出してしまいました。引き返そうとしたときにはもう、日が傾こうとしていたのです。このままでは間に合いません。農夫はいくらかのお金と、労力と、そして何より土地をふいにしまいと必死で引き返しました。息も絶え絶えになりながらも、農夫は日が今にも地平に隠れようとする寸前、ついにもとの場所に戻ることができました。しかしながら農夫はそこにたどり着いたと同じに、息を絶やしてしまいました。結局農夫が必要だった土地は、その身体ひとつ入る墓穴の大きさに過ぎなかった、というお話です。 ラジオが壊れて鳴らなくなった時、それを分解して修理しようと試みるのは面白いことです。ここが切れてる、とか、ここがはがれてる、とか、調べるのは楽しいです。そのうち、ここはどうなっているんだろう、これは何だろう、といろいろなところを開けてみて新しい発見を喜ぶようになります。 でもそもそも、それは修理が目的でした。もう一度鳴るようにさせるのが目的でした。組み立て直さなければなりません。組み立て直すのは骨が折れます。それに組み立て直して音が鳴らなければもう一度開いてみなければなりません。そしてもちろんそれをまた組み直さなければなりません。分解して、開きっぱなしで、音を出させることを忘れてしまえば、それは修理ではなく破壊です。 土地を探すのもいいでしょう。ラジオの仕組みを調べるのもいいでしょう。でも、それは「往路」です。いくら大切でもそれは「大切な二つのことのうちの一つ」です。帰り道のことを考えましょう。何のために家を出たか。「理由を求めるようになった理由」を思い出さなければなりません。
手垢のついた言葉はすべてダメだということはない。
手垢のついた言葉のよくないのは、本当に感じたことかどうかが傍から判らないところにある。
どうも、右男です。
以前ツイッターを始めたと申しましたが、このブログの左側にそのツイートが表示されるようにしました。これで現代人ぶれます。
目に見えやすい価値判断基準、例えば給料、学歴、容姿、などは、人の価値を正確に測る物差しではない、ということを我々は経験的に知っていますね。もちろんそれらはある程度は有効です。ただ、それらは時の運、時代、環境などに大きく左右されているため、「人自身」や「人が生み出したもの」の「本質の価値」とは必ずしもイコールではないのだと我々は分かっているのです。ただ、「本当の価値」なんてものを正確に測る方法なんてものはこの世に存在しないのも事実です。我々は必要に迫られ、便宜的にそういった目に見えやすい価値判断基準を使用することになります。それ自体は全く悪いことではありません。ただ、その尺度が間接的で不完全な指標であることを忘れて妄信してしまう時に、大きな過ちを犯してしまうことになります。例えば金銭と言う価値基準を絶対的だと信じ切ってしまったが故に「金の亡者」になり下がってしまう、というようなことです。金銭は価値判断としてとても有効ではありますが、人や物の価値を完璧に表示できるほど万能な指標ではありません。
さて、我々が生活していく上で、こう言った目に見える価値と目に見えない価値との間の齟齬は大なり小なりほとんどの人が実感していることでしょう。そしてそれらのバランスを自らの経験などからなんとか折り合いをつけ、ある程度自分を納得させ、生活を続けているのだと思います。人によって「目に見える価値」と「目に見えない価値」のどちらにどれだけ関心が置かれているかが異なるのです。 先ほど「目に見える価値基準を妄信していては過ちを犯す」と述べましたが、かといって「目に見えない価値基準」を過剰に信じすぎることも大きな問題です。なぜなら、「測れない価値の為に努力している人」と、「測れない価値の為に努力していると 思 わ れ よ う と し て い る 人」は、傍からは区別することができないからです。そりゃあそうです、測れないのですから。測れない価値の存在をぼんやりと信じている人をフリで騙すのは、案外簡単かもしれません。 さて、それではその方法で、自分自身を騙してはいないでしょうか。私も目に見えない価値を信じているものの一人です。お金になるわけでもない、何かの点数をあげるわけでもない何かに、幽かな価値を信じているものの一人です。私は私に、騙されてはいないでしょうか。それが測れないものであるが故に、測れる価値を満足に生み出せない自分を慰める術として利用してはいないでしょうか。そう思うと、時折非常に不安になります。目に見えない価値はあります。ただそれは、隠れ蓑にもなります。自分の本当の価値を高めようと思うのならば、そんな風に自分を省みることも必要だと思います。
金細工をものする私のところに小ぎれいな少女がやってきた。
「金貨を薄く切って、二枚にすることはできるかしら」 「ええ、少々お時間をとりますが、できないことはありません」 「ではこの金貨をお願いしますわ。 これは私の大事な宝物なんですのよ。 ほら、この表の綺麗なお花のレリーフをご覧になって。 美しいでしょう? 私、このお花が大好きですの。 けれども私、この金貨の裏っ側が大嫌いなの。 ちっとも味気がなくって、嫌になっちゃう。 表を見て。 ほら、こんなに細かな細工がしてあるのよ。 まるで本当のお花が咲いているみたいでしょう? ずっとだって見ていられるわ。 けれど、表がこんなに美しいものだから、裏は余計に醜く感じてしまうの。 見るのも、触るのも、イヤ。 だからもう、裏っ側なんて、捨ててしまおうと思ったの。 金貨を横からすぱっと切って、裏側の半分はどぶ川にでも捨てるわ。 けれど金貨を薄く切って二枚にするなんて、きっと難しいでしょう? だから腕ききで噂のあなたのところまでこうしてやってきたのよ。 ね、できるんだったら、早くやって頂戴。 少しだったら、私、待つわ。 お願い」 金貨を二つに切り分けようと思えば、できる。 ただ私は、新しくできる金貨の裏側を彼女が気にいるとは到底、思えない。
ツイッター、今になって始めました。ブログや本サイトとの連携も考えていますが、そのあたりはボチボチと・・・。
情報発信の方法としてウェブサイト、ブログとやってまいりましたが、はっきり言って内容は極薄でした。だらだらながながと書くより、140文字の制限付きでぼそぼそちびちびやっていった方が身の丈に合っているのかもしれません。インターネットが普及していくにつれて情報発信の主流は様々に形を変えていきましたが、個人が言葉でやりたいことって言うのは究極、こんな形だったのかもしれませんね。 とはいえ私個人としてはまだまだ言葉でやりたいことはたくさんあります。できることもまだたくさんあるはずです。出足が遅かろうが、やりたかったらやるべしです。ツイッターを始めたのも完全に「流行に乗りに行った」タイミング(むしろそれより遅れているかもしれない)ですが、やりたかったのでやります。それでいいんです。音楽も小説も、やりたいと思えている限り、ずっと続ければいいんです。
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